- 曲目 -

長者の山 秋田おばこ節 秋田 港の唄 生保内節
正調生保内節 秋田船方節 本荘追分 秋田馬子唄
秋田追分 秋田おはら節 おこさ節 三吉節
秋田草刈り唄 鹿角綱より唄 秋田長持唄


長者の山

盛り盛るとハイハイ
長者の山盛るナーハイハイ
盛る長者の山 サアサ末永くナー
ハイーキターサッサーキタサ

山さ野火つく 沢まで焼けたナー
なんぼかわらびコ サアサほけるやらナー

さんか深山の さなづらぶどうもナー
わけのない木に サアサからまらぬナー

山で切る木は いくらもあれどナー
思い切る気は サアサ更にないナー

忘れ草とて 植えては見たがナー
思い出すよな サアサ花が咲くナー

さんか深山の 御殿の桜ナー
枝は七枝 サアサ八重に咲くナー

たとえ山中 三軒家でもナー
住めば都の サアサ風が吹くナー

[解説] 「長者の山」は、高音と低音の巾が狭く節に特別な技巧が凝らされていないので歌いやすい唄の一つである。この唄にまつわる伝承では、奥羽山麓を岩手県から秋田県鹿角に通う通路の宿駅「宝仙台」辺りの長者(地主)を讃えた唄と伝えられている。
この唄は,「長者」の名の通り祝い唄で,元唄には「盛るナ〜 ・末永くナ〜」という「ナ〜」が付けられていない。「ほけるやら」は呆けるで、よく伸びる。「さんか深山」は山奥。「さなずら」は山ぶどうの事で、「わけのない木に、サアサからまらぬ」は,男女の関わり合いを表す。
  「長者の山」は、素朴さの籠るさりげない唄い方が適している。
  *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田おばこ節

おばこナーハイ ハイ
何んぼになるハイ ハイ
此の年暮らせば 十と七つ
ハァーオイサカサッサー オバコダ オバコダ

十七ナー おばこなら
何しに花コなど 咲かねどな

咲けばナー 実もやなる
咲かねば日陰の 色もみじ

おばこナー どこさ行く
裏の小山コさ ほんなこ折りに

ほなコナー 若いとて
こだしコ枕コに 沢なりに

おばこナー 居るかやと
裏の小窓から のぞいて見たば

おばこナー居もやせで
用のない婆様など 糸車

[解説] 「秋田おばこ節」は元唄が山形県の「庄内おばこ」で、馬産地を巡り歩いた庄内馬喰が運び込んだとされている。昔唄は雄物川の支流玉川沿いの地域を上流から「玉川おばこ」「田沢おばこ」「生保内おばこ」、玉川の支流桧木内川沿いに「桧木内おばこ」「西明寺おばこ」とと呼ばれ乍ら平野部に入って「仙代おばこ」となり、この地出身の歌い手佐藤貞子がそれを一部改作して全国に唄い広めたのが、今の「秋田おばこ」の元唄である。
  この唄も他の「仙北民謡」と呼ばれる唄と同様に、踊りを見せる為に唄われた唄だったから、昔唄が改作されて所謂「貞子節」になってからも、唄い手の気っぷそのままに早いテンポで弾んだ唄い方をした。
  *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田 港の唄

ホーラホーサーノサー エンヤラホー
エンヤホーラホー サーノサー
エンヤラホー エンヤー


沖のかもめに 父さん聞けばョー
私しゃ立つ鳥 波に聞け
ホーラホーサーノサー エンヤラホー
エンヤホーラホー サーノサー
エンヤラホー エンヤー


遠くはなれて 母さん思ってョー
うらの浜なす 花が咲く

今日の泊まりは いずこの空だョー
風と波とで 日が暮れる

男鹿の山だよ 港の浜だョー
春を迎える にしん船

雪が消えたよ 草履コの道だョー
町は春風 そよそよと

あちらこちらに 嫁とり話ョー
おらが嫁御は 何処にいる

[解説]この唄は昭和41年頃、現在の秋田市土崎港出身の劇作家:金子洋文氏が、故郷の海や漁師をイメージシテ作詞・作曲してもので、新民謡では珍しく定着したものであります。
  土崎港は、雄物川の河口港で、船問屋の民の家には船乗り達がやって来て酒盛りをしたと言うからそれらもヒントになったかもしれない。
  「ホーラサーノサー」は伝馬船を漕ぐ時や、引き船の時の掛け声から来たものだという。
  *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」および「秋田港の唄全国大会」の資料より抜粋」
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生保内節

吹けや生保内東風
七日も八日もハイ ハイ
吹けば宝風 ノオ稲みのる
ハイーキターサッサーキターサ

吹けや生保内東風 秋吹くならば
黄金波打つ ノオ前田圃

生保内東風なら ひがたの風よ
そよりそよりと ノオ湯のかおり

わしとお前は 田沢の潟よ
深さ知れない ノオ御座の石

とろりとろりと 沖行く舟は
十七招けば ノオ岸による

前の田沢湖 鏡において
雪で化粧する ノオ駒ヶ岳

風の模様で 別れていても
末にまとまる ノオ糸柳

上を見てさえ 限りはないと
下を見て咲く ノオ藤の花

[解説] 「生保内節」は、戦前まで土地から外へは余りでなかった。その頃は生保内<おほないぁ>だしと呼んで、今よりずっと素朴さをおびた唄だった。
  生保内は昔から岩手や鹿角に通う道筋の宿場だったので、いろいろな唄に何かの関わり合いが無かったものかどうか、古い歌詞には他所からの借物らしい気配が落いので、地元発生説もこのまま素直に受け止められているようだ。
    *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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正調生保内節

吹けや生保内東風
七日も八日もハイ ハイ
吹けば宝風ノオ稲みのる
コイ コイ コイ コイト

ドドと鳴る瀬に 絹機織立てて
波に織らせてノオ瀬にきせる

雨はどんどと 雨戸にさわる
心まよわすノオ南風

生保内乗り出し 角館越えて
駒よ急げよノオ久保田まで

一度二度なら 褄折り笠よ
三度笠ならノオ深くなる

葦を束ねて 降るよな雨に
通い来るのをノオ帰さりょか

[解説] 「正調」と名ずけた生保内節が歌い出されたのは、昭和40年代のことで,秋田民謡が一応唄い尽くされたと思われ始めた時、プロの歌い手が生保内地方の保存会で唄っている昔唄を真似「正調生保内節」と名付けて唄い広めた事による。 *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
  昔唄は戦前までは、「生保内だし<おぼないぁだし>」と呼ばれ、民間では酒盛りの時の手叩き節、夏祭りなどでは鳴り物と一処に手踊りの伴奏唄だった。 
*以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田船方節

ハァーヤッショ ヤッショ

ハァーハァーヤッショ ヤッショ
三十五反のハァーヤッショ ヤッショ
帆を巻き上げて
ハァーヤッショ ヤッショ
鳥も通わぬ 沖はしる
その時時化に 遇うたなら
ハァーヤッショ ヤッショ
綱も錨も 手につかぬ
今度船乗り やめよかと
ハァーヤッショ ヤッショ
とは云うものの 港入り
上がりてあの娘の顔見れば
ハァーヤッショ ヤッショ
辛い 船乗り 一生末代
孫子の代まで やめられぬ
ハァーヤッショ ヤッショ

[解説] 今唄われている「秋田船方節」の元唄は「船川節」だと言われている。山陰島根の「出雲節」が北に運ばれ各地に船唄、船方節となって定着したと伝えられているが、これ等の唄に共通な「三十五反の帆を巻き上げて」という歌詞などでも其の間の消息を知る事が出来そうだ。
  この唄を今の形に纏めあげたのは、この地域出身の森八千代で独特の節廻しで公演したのが、大正の末期から昭和年代へかけての事である。
  そして更に広く知られる機会を作ったのは、秋田の歌い手佐々木常雄が、昭和33年のNHKのど自慢で唄って優勝した事による。このときの伴奏陣は三味線浅野梅若、尺八は畠山治蔵というオールメンバーだった。
  これに追い打ちをかけるように昭和38年には田中アヱ子、続いて日本民謡大賞で小野花子の両氏がこの唄で日本一になった事で秋田民謡の王座を占めるようになった。
 *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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本荘追分

キターサー キターサ
ハァー本荘キターサ ハァー名物ハイ ハイ
ハァー焼山のハイ ハイ ハァーわらびヨー
キターサー キターサ
焼けば焼く程ハイ ハイ ハァー太くなる
キターサー キターサ

ハァーあちらこちらに 野火つく頃は
梅も桜も 共に咲く

ハァー出羽の富士見て 流るる筏
つけば本荘で 上り酒

ハァー江戸で関とる 本荘の米は
おらが在所の 田で育つ

ハァー鈴の音たよりに 峠を越せば
恋し本荘は おぼろ月

ハァー本荘名物 焼山のわらび
小首かしげて 思案する

ハァー本荘追分 聞かせておいて
生きた肴を 食わせたい

[解説] 「本荘追分」は「信濃追分」が変化したものと言われている。信濃(長野県)とは建保元年(1213年)頃より交流が深く北前船の寄港によって「馬子唄」「追分節」などが入り定着したものといわれている。
  この唄も馬を引いて山坂を越える道中でうたわれたと言われ、古い歌詞には殆ど山にちなんだ歌詞が多く,現在の歌詞は大正11年に地元の鳥海新報が第1回募集し,大正14年に第2回目を募集している。
  また,本来道中歌から山の歌そして酒盛り歌、座敷歌になったものなので,歌詞も多様になり,旋律・拍子も明るく、はずむ調子が特徴である。時代により,また地方によっていろいろな歌い方があり,十人十色それが民謡の特徴でもあろう。
  昭和32年NHKのど自慢コンクール日本一の長谷川久子は加納初代のレコードを聞きながら更に手を加えて,三味線名人浅野梅若、尺八は武山浩蔵の協力な伴奏陣の協力を得て現在の本荘追分を定着させ、唄と共に名曲中の名曲を編みだした。
  本荘追分を唄い全国大会で優勝された秋田県の歌い手は次の通りである。昭和32年日民第8回大会:佐藤サダヱ,昭和35年全国青年大会:佐藤サワヱ,昭和42年日民第18回大会:浅野和子,昭和52年日民大会:金沢恵子,昭和53年大会:吉田正男,昭和55年日民大会:菅原友笑,昭和57年日民大会:石川ウメ子,昭和58年日民大会河田かつ子,昭和63年日民大会:松田操
  郷民大会では,昭和45年郷民大会:佐藤サワヱ,昭和50年:東海林叶江,昭和57年郷民大会:伊藤信子,平成元年郷民大会:後藤麻貴子,平成8年郷民大会:浅野竹美 等々数多い民謡日本一を生み出した曲であり,聞く人も認めている名曲である。
*以上「本荘追分全国大会プログラム(著者:牧 賢蔵)」より抜粋」
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秋田馬子唄

ハイーハイ

ハァーあべやハイハァーこの馬ハイ
急げや川原毛ハイーハイ
ハァー西のハイハァーお山にハイ
アリャ陽が暮れるハイーハイ

辛いものだよ 馬喰の夜道
七日七夜も アリャ長手綱

一人淋しや 馬喰の夜道
後にくつわの アリャ音ばかり

さらば行くよと 手綱を曵けば
馬も嘶く アリャ鈴も鳴る

峠三里の 山坂道を
青馬よ辛かろう アリャ重たかろう

[解説]「秋田馬子唄」の「秋田」は他の地域の唄とまぎらわしいから付けた名前で,「馬方・駒日曳き」など,馬に関する一連の道中唄である。   東北は古くから馬産地として知られ,こうした地域を往復した人々が,違った地域の唄を持ち歩いたことで交配が行われ,これが定着してある年代が経って漸く土地の唄になったらしく,歌詞・節共にそれらしい匂いを濃くしているものが多い。
    馬子唄の「馬子」,馬方節の「馬方」について見解を述べた人がいたが,念のため辞典を引いてみたら「馬方」は,馬で荷物を運んで暮らしを立てている人。「馬子」は単に「馬方・馬曳き」となっており同意語として扱われていた。
    荷物を運ぶ馬子にしろ,馬の体列を追う馬方にしろ,山道,夜道をかけずる人々に関わる馬曳き唄には皆一沫の哀愁が感じられる。
    {唄い方}この唄は半分づつ繰り返しのようになっていますので,前半を覚えると後半も唄えるようになります。
        ハア〜あべや・・・ハァ〜ののばし方と,アベェ〜やァ〜・・・の、やァァァの節廻しをはっきり入れる。
        ハ〜この馬・・・ハァ〜,このオうウ〜まア〜〜ア・・・最後のア〜〜アは伸ばしながら段段落ちるので,調子を狂わさないように。
        唐毛・・・からア〜アげエ〜・・・ア〜アの上げながらの節廻しに,この唄の特色があります。いずれ唄尻をしっかり止めると唄が生きてきます。
 *以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田追分

前唄

ソイーソイ
春の花見はソイ千秋公園 キタサノサーアーソイ
夏はソイ象潟 男鹿島かソイーソイ
秋は田沢かソイ 十和田の紅葉ネアーソイ
冬はソイ大湯か 大滝かソイーソイ

本唄

ソイーソイ
太平のソイ山の上からソイ
はるかにソイ見ればソイーソイ
水澄みソイみなぎるソイ
八郎潟ソイーソイ

後唄

誰が待つやらソイきみまち坂よネソイ
主とソイ二人で 抱き返りソイーソイ

[解説] 「秋田追分」の元唄は周辺地域で唄われていた「在郷追分」だったと言う。当時秋田には県南部にかけて「追分2」という同巧の唄が残っており「在郷追分」もその類だったと思う。
  明治32年に秋田県の五城目町の農家に生まれた「鳥井森鈴」は、子供の頃から唄が好きで家人に隠れて唄い歩いた言うが、これを世に問うたのは大正14年代の事だった。「秋田追分」が発表された時は、すでに固定している追分のイメージを損なうものとして、紛い物扱いを受けた一時期があり、納得させるには時間がかかった。
  現在の「秋田追分」の創始者である「鳥井森鈴」が当時好んで唄った自作の歌詞をご紹介しましょう

別れて今さら 未練じゃないが 気にかかる
主は何処で 暮らすやら
雨の降る日も 風吹く夜さもネ
想い出しては 忍び泣き

まとまるものなら まとめておくれ
嫌で別れた 仲じゃない

何卒 何卒 叶わせ給えネ
御礼詣りは 二人連れ

 *鳥井森鈴さんが舞台でこの歌詞で唄うと、不縁になった女の人などは客席で泣き崩れたと伝えられている。

その3
前唄  花はよけれど ちと木が若いキタサノサ〜 折らせぬ心でなけれども つぼみ心でまだ恥ずかしやネ  咲いたら折らんせ いく枝も
本唄  のぼる朝日の まことに惚れて 笑い染めたる梅の花
後唄  春のやよえに 啼く鶯はネ  梅の木恋しさに啼くであろう

*以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田おはら節

ハァーサーサダシタガ アヨーエ

ハァー野越え山越え 深山越え
あの山越えれば紅葉山
紅葉の下には鹿がおる
鹿がホロホロ 泣いておる
鹿さん鹿さん 何故なくの

ハァー私の泣くのは ほかじゃない
はるか向こうの 木の陰に
六尺あまりの狩人が
五尺二寸の鉄砲かつぎ
前には赤毛の 犬をつれ
後ろに黒毛の 犬つれて

ハァーあれにうたれて 死んだなら
死ぬるこの身はいとはねど
後に残りし 妻や子が
どうして月日を送るやら

思えば涙がおはら先にたつ

[解説] 唄の題名の上に「秋田」「津軽」等と地域の名前を被せたのは、他にも同じ題名があって紛らわしい事や、自分好みの節で唄い変えた場合が多い。「秋田おはら節」と言うこの唄も、もともとは明治末期から大正初期にかけて唄われた「津軽おわら」の焼き直しと思って間違いなさそうだ。
今は他所者では真似のできないほど手の込んだ津軽の唄も、当時はもっと節回しが楽で、器用な人なら見様見真似でも唄って唄えない事のない唄だった。
秋田には津軽ものを唄う門付けはあまり廻って来なかったので、また聞きで覚えた職人などが唄ったものを聞いて津軽の唄を知るきっかけを得たという人もいる。この唄を今の「秋田おはら節」として唄い広めたのは、秋田市在住の村岡一二三さんで、彼の女に浪曲の素養があったせいもあってか、独特の「語り調」が、この唄の聞かせ処になっている。

*以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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おこさ節

啼くな鶏 まだ夜が明けぬネ
アラ オコサノサ
明けりゃお寺のコーラヤ コラ鐘が鳴るヨ
オコサデ オコサデ ホントダネ

お前来るかと 一升買って待ってたネ
あまり来ないのでコーラヤ コラ呑んで待ってたヨ

お酒飲む人 花なら蕾みネ
今日も酒 酒コーラヤ コラ明日も酒ヨ

俺とお前は 羽織のひもこネ
固く結んでコーラヤ コラ胸におくヨ

恋の古きず お医者はないかネ
何故か今夜はコーラヤ コラ痛み出すヨ

おこさおこさと 皆さま唄うネ
おこさ唄ってコーラヤ コラ立ちあがれヨ

[解説] 秋田でこの唄が唄いわれ出したのは終戦まもなくの事、敗戦の苦しい想いを紛らわそうという酒の席で誰かが唄い出したのにつらけて、つい皿、小鉢を叩いて唱和し合ったこの唄は未だ国籍不明のままである。
 世の中が落ち着いてくると、地元では唄われなくなり出した頃、他所の地域の人々が秋田の唄と思い込んで唄うようになった、勿論も元唄の出所等詮索されないままに。
 何しろ調子がいい、節回しも民謡調の小節が入っている、その上歌詞ときたら人を小馬鹿にしたような落ちまで付いている。唄っていると友達をひっかけた歌詞を自分でも作れそうなこの唄、正に「スーダラ節」秋田版とでも言うべき愉快な騒ぎ唄である。

*以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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三吉節

ジョヤサー ジョヤサー

私しゃ太平三吉の子どもジョヤサー
人に押し負け 大嫌い
ジョヤサー ジョヤサー

今日は目出度い 三吉の祭り
ジョヤサージョヤサの 人の波

太平山の一の鳥居に 蛙が登る
明日の天気は 雨となる

伊勢に七度 荒野に八度
出羽の三吉に 月詣り

[解説] 秋田市赤沼の三吉神社、秋田市太平の木曽石神社に梵天奉納の唄で、元唄は「ほうさ節」とも言った。「ほうさ節」とは「保呂羽山節」のなまりだと思われる。出羽丘陵にある保呂羽山波宇志別神社にまつわる唄で、秋田市太平出身の秋田民謡界の草分けとも云うべき故田中誠月氏が度々お詣りに行き、聞き覚えたものものを編曲したものであると聞いている。
 昭和16〜7年頃、NHK秋田放送局が梵天奉納の唄を全国実況放送する事になり、故田中誠月、故永沢宝治、故進藤勝太郎の三氏が三吉神社の社務所にて現在の唄にしたものである。その理由は、元唄よりさらに威勢のいい唄にしよう、荒神様に奉げる唄とする為であった。

*以上「フジオ ロクボン出版の「民謡学校」より抜粋」
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秋田草刈り唄

朝の出かけに どの山見ても
霧のかからぬ アリャ山はない

俺とお前は 草刈り仲間
草もないない アリャ七めぐり

田舎なれども 俺が里は
西も東も アリャ金の山

峰の白百合 揺れたと見たら
草刈るおばこの アリャ頬かむり

馬よ喜べ どの山見ても
今年ゃ馬草の アリャ当たり年

[解説] 秋田草刈唄は,主に県南の仙北、平鹿、由利地方でうたわれ,刈り草を運搬するのに馬を使ったことから,馬方節や馬子唄などの一連の馬曳き唄と関連しており,歌詞も共通のムードがありお互いが身近な関係にあったことは推測される。 昭和28年この元唄を発掘した由利郡象潟町(現在:にかほ市象潟)の故 今野 健さんが新しくアレンジし「秋田草刈唄」と名付けた。 昭和35年NHKのど自慢大会で佐々木實さんが秋田県代表として唄って以来,全国に知れ渡り,現在「秋田草刈唄全国大会」がにかほ市仁賀保町で開催されて,全国から挑戦者が出場して年々盛大に開催されている。 2番目の歌詞に「草もないない アリャ七めぐり」とありますが,これは、昔は部落協同の草刈場があって,朝早く草刈場に行かないと他の方に草を刈られてしまい、草が集まらない、7箇所の場所を回って草を集めなければならない。 俺とお前は草刈仲間ではあるが,朝早く行かないと良い草は刈られてしまう・・・と唄った歌詞だそうです。
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鹿角綱より唄

サーテバナー デッキデキテバ バッキバキ

よれた よれたよハァヨイショ
綱よりよれたハァヨイショ綱がよれねで人よれた
サーテバナー デッキデキテバ バッキバキ

よれた よれたよ みごとな綱が
此の家御亭主に 納めおく

目出度 目出度の 重なる時はよ
天の岩戸も おし開く

一に嫁取り 二に孫見ればよ
三に黄金の 蔵を見る

目出度 嬉しや 思うこと叶たよ
稲に鶴亀 五葉の松

此の家旦那様 お名前なんと
倉は九つ 倉之助

田舎なれども 鹿角の里は
西も東も 金の山

門に立てたる 祝いの松に
かかる白雪 みな黄金

唄え唄えと わしばりせめる
唄が出なくて 汗がでる

[解説] 綱よりの仕事に専用の唄が付くのはこの地方独特のもので,家の新築や家床(やどこ)の時唄われた唄である。
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秋田長持唄

蝶よナーヨー花よとヨーハーヤレヤレ
育てた娘 今日はナーヨー 他人のヨー
オヤ手に渡すナーエー

さあさお立ちだ お名残おしや
今度来る時ゃ 孫つれて

傘を手に持ち さらばと言うて
重ね重ねの いとまごい

故郷恋しと 思うな娘
故郷当座の 仮の宿

箪笥長持 七棹八棹
あとの荷物は 馬で来る

[解説] この唄は題名通り婚礼の時に唄ほれる祝い唄である。「長持唄」は婚礼と言うめでたい行事の祝い唄であるにも係わらず。嫁の門出が「暇乞い」という「惜別の情」を唄う哀調の唄になり過ぎたのは一考を要することで、唄それぞれの持つ内容に従って唄い分ける方がいいと思う。 ここに記載した歌詞は、嫁が家を出るときの歌詞で、長持ち唄の代表的な歌詞として唄われているが、この他にも、行列が通る途中の「道中唄」や嫁家に着いた時の「納めの唄」、「箪笥担ぎ唄」などいろいろあって、その場その場の歌詞で唄う。 長持唄が全て哀調一色で唄ったら祝いの忌み事「お涙頂戴」になってしまうだろう。地域の事情を知らない方は、間違わないよう歌詞をよく理解してほしい。 <フジオクロボン より抜粋> 戻る
ドンパン節

ドンドンパンパン ドンパンパン
                ドンドンパンパン ドンパンパン
ドドパパ ドドパパ ドンパンパン

姉山さ行くか 行かねがや
今蕨っコ さかりだ
酒屋の本当の え〜どころ
一ふくベッコ しょっかけて

自慢コ言うなら 負けないぞ
米コが本場で 酒本場
秋田の蕗なら 日本一
小野の小町の 出たところ

                唄コ聞くなら 黙って聞け
上手もあれば 下手もある
お前方こさ来て唄ってみれ
なかなか思うようにゃ いかねもだ

朝まに起きれば 飲みたがる
戸棚の隅ッコさ 手コ入れて
あっちこっち見ながら 笑い顔
茶わんで五六杯も 知らぬ顔

                おら家のオヤジは ハゲ頭
隣のオヤジも ハゲ頭
ハゲとハゲが喧嘩して
どちらも毛が(怪我)無く 良かったな

  [解説] この唄は明治の中期に作られ、秋田県南の仙北地方で唄われ、作者の名前を付けて「円満蔵甚句」と呼ばれていたと言う。 元唄は南部の「どどさい節」とも言われ、また「仙北甚句」をアレンジしたものだとも
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